コンテンツの思想
- 作者: 東浩紀,伊藤 剛,神山 健治,桜坂 洋,新海 誠,新城 カズマ,夏目 房之介,西島 大介
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2007/03/01
- メディア: 単行本
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実写映画でなぜ編集が可能なのかと言えば、つまり、作品よりも世界そのもののほうが豊かだからです。
(中略)
「まんが・アニメ的リアリズム」も、作品の外側に「まんが・アニメ的世界」というのが広大に開けていて、その一部を切るとこういう作品ができました、みたいなものだと思うんです。
p33-34 東浩紀発言
「視覚の優位」*1ではなく、「編集の優位」という言葉が思い浮かんだ。
斎藤:手塚の昔のマンガにある、コマを突き破ったりぶら下がったりする表現が、今のマンガの絵でやると不自然になるという指摘がおもしろかったんですけど
(中略)
夏目:大塚英志が、大友克洋が出てきたときに、マンガがつまらないとなぜみんな言わないのか、ということをたしか言っていて、もはやマンガに語るべきものは何もない、と言っているんですね。、僕はまだマンガがおもしろかったし、語ることはたくさんあると思ったから、それが非常に不思議だったんですが、大塚さんは大友克洋のリアリズムに対してどうも違うという感じをもっていた
p150-151
筒井康隆が『文学部唯野教授』で、メタフィクションの具体例として手塚のマンガのなかに手塚自身が登場人物として出てくることを挙げていたのを中学生のころに読んだため、手塚治虫のマンガとメタフィクションが自分の中では強く結び付けられているが、このやり取りはなぜ手塚のマンガではメタフィクション的なことが可能だったかということを示唆している。
つまり手塚のマンガは(リアリズムに則った大友のマンガ*2に比べると)記号的だからこそ、メタフィクションが可能だったのだと。
同じようなことは小説でも言えるような気がする。例えばセルバンテスの『ドン・キホーテ』はメタフィクション小説だと言われるが、同時にドン・キホーテという人物ほど、古今東西の小説の登場人物の中でそのキャラが広く流通した人物はいないだろう。
(ライトノベルは)四〇〇字一エピソードの単位で基本的に完結していて、それが連なっているのをどこから読んでもいいというものになるのではないか
p186 新城カズマ発言
面白い。辞書のような小説。
*2:大塚の大友批判については『サブカルチャー文学論』が詳しい