一 コミュニケーション能力と言語的能力との境界設定について
- 1 談話状況の構造(言語に依存しながらつくり出される)を、言語表現(談話状況において使用される)から区別するために、私(ハーバーマス)は発言と文との区別に注意しておきたい。
- 2 条件が標準的であれば、どのような談話状況にも普遍的成分が繰り返し現われる→コミュニケーション能力の理論の対象
- 3 「私は君に明日来ることを約束する」と発言するときに、私は約束を表現するだけでなく、約束をしているのである。この発言は約束をすることである、と同時にこの約束を表現してもいる。それゆえ遂行的表現は言語学上の意味を持つと同時に、制度的意味を持つ。
- コミュニケーション能力の理論は、話し手や聞き手が文を発言へ変形する時に彼らが語用論的普遍態を使ってなそうとしている行いを説明しなければならない。
- 4 発話行為は遂行文と、この文に従属する命題内容をもつ副文とから合成されるわけである。
- 5 日常言語的なコミュニケーションの二重構造は、発話行為と命題内容文との基本的な統合のなかに現われる。
- 7 われわれは言明(事実・事態を再現する文)に二重の想定を結び付けている。
- ①言明は対象についてなされるが、その対象が実在しており、原則的に同定され得る
- ②対象に付与される述語は実際にもその対象にあてはまっている
- 言明だけが真or偽として主張されうる→言明は常に主張的発言(主張、伝達、確認などの意の発話行為)に従属する
- コミュニケーションの話法が変っても、たとえば問いから命令に、あるいは命令から告白に変形されても、命題内容は同一であり続けることが可能
- 9 コミュニケーション能力と言語的能力とを互いに境界づけるための3段階の抽象化を行ってみたい
- 10
- 第一段階:談話状況の可変的成分を捨象し、談話状況一般に見られる一般構造だけを残す→基本的発言をとり出せる。
- 第二段階:コミュニケーションの実行を捨象し、基本的発言の中で使われる言語表現だけを残す→基本文をとり出せる
- 第三段階:発話行為をカッコに入れて命題内容文だけを残す→基本単位をとり出せる
- 13 述語論理学;われわれが言明を形成したり、真理値を変えずにそれを変形したりする際の規則の体系を再構成することにある。言明は可能な主張文の関数として把握されなければならない。
大変遅れましたが、yoru_hikaruさんのレジュメへのコメントです
院試の勉強のため人生でいちばん勉強している今日この頃です。
という言い訳はさておき、yoru_hikaruさんへのコメント
■七・五段落
「体験と行為の区別は、該当する諸関係が体験されたり操作されたりできる、一つの制御水準を前提している」
→まず、体験とは世界自体の縮減であり、行為とは特定のシステムの縮減です。つまり人は同時に、世界自体の縮減と特定のシステムの縮減、体験と行為を生きているということだと思います。そして「体験と行為の区別はシステムとの関係で理解できる」(同じく七・五段落)つまり世界の中にシステムが出来てこそ初めて体験と行為の区別が生まれてくるものだから、「該当する諸関係が体験されたり操作されたりできる、一つの制御水準」とは(特定の)システムのことを意味しているのではないでしょうか?
yoru_hikaruさんの疑問点で僕が答えられそうな部分はここくらいでした。後はyoru_hikaruさんの疑問点と僕の疑問点は大体かぶってます。
■そして
ついに僕の番ですかね。ハーバーマスの「コミュニケーション理論のための予備的考察」。そんなに長くないので一人で出来そうな気がします。で、ちょこっと読んでみたところサールの発話行為論とか出てきてて、もしかしてこれは前に北田暁大「責任と正義」第3章を読んだ経験が生かされる予感。。。
■その北田さんですが、僕も講演会行く予定です>hidexさん。ずっと前に電話予約してました。お会いできたらいいですね。
お返事
■BBさんへのお返事
「反省」についてですが、まずこの一節、世界の外に位置する超越論的主体の「存在」(本来の−−世界の中に位置するはずの−−存在ならざる存在)から出発する伝統的哲学に対するコメントであることをご理解ください。それらの哲学は自我がまずあって、それが反省を行うと考えるが、実際には反省の作動が積み重ねられることによって初めて、その担い手としての自己同一的な自我が最初から「存在」していたかのような仮象が産み出されるのである、と。
ここのところ、ベンヤミンの「反省の媒質(メディア)」という概念との関係を考えてみるのも面白いかと。メニングハウス『無限の二重化』(法政大出版局)では、ロマン派−ベンヤミン−デリダールーマンまでこの発想で繋いじゃうという、恐ろしい議論が展開されてます。
僕は最初にルーマンの反省に関する部分を読んだ時にハイデガーを思い出しました(ハイデガーの例ばかり出してすみません。ハイデガー萌えなもので)
カントは、自我がなにかを「記憶のうちに」もっているという心理学的な解釈をくだしているが、この解釈は、根本においては、世界=内=存在という実存論的な構成をさすものなのである。
『存在と時間』ちくま文庫p242 第23節の終わりのあたり
カントは自我というものを実体視しているが、自我というものは世界があって初めて成り立つものなのだ、とハイデガーは主張していると思うのですが、ルーマンも伝統的哲学に概ねハイデガーと同じようにコメントしている、と僕は理解しました。
■hidexさんへのお返事
keiさん引用部にもあるように、
取り除くさいの援助の作業【をも】おこなう
とあるので、「そういう機能もあるよね」程度に理解すべきだと思います。
http://d.hatena.ne.jp/hidex7777/20040406#p2
だとするとコミュニケーションの主要な機能とはどのようなものなのでしょうか?そこがいまいちわからなかったのですが。。。
■>もちょい敷衍を>「期待」「再帰」
つまり複雑性を縮減するために、人は、相手が自分がどのような行動を取ると思っているか、ということを考えて行動する、このことで環境世界と区別された社会というものは成り立っている、つまり(上に書いた自我に関することと似ていますが)社会という実体は存在せず、社会は人々の期待の反復によって成り立っている。
このことが、ケインズの美人投票の話に似てるなーとか、ギデンズとかベックの近代の再帰性の話はこのルーマンの反省概念と関係があるのかなー、などと思ったのでちょっと質問してみたというわけです。
■追記
短い文も引用のタグを使ってるとちょっとウザイと思ったので、短い引用の時は>を使います。